対価を払う

対価を払う、ということを人から教わったのは割と大人になってから。その重要さを知ってからは、私の中で1つのルールとして、行動の指針となったりしている。


1つ例を挙げれば、カフェ利用。例えば友達と時間を潰すのに入った時、1人一品何かを買うのは、私の中では当然のルール。


これが案外そうでもない人がいて、おそらくお金がない若い世代だから尚更かもしれないが、「友達が買うなら私はいいや」という人も見かける。


お店を利用させてもらうその対価として、お金を払う。シンプルでありながら、実は忘れがちなことなのかもしれない。


私だって、最近までそういうことはよく考えずに生きてきた。ルールとしてなんとなく抱いてはいたが、それは昔から母が「何か買いなさい」と毎度言っていたからで。

母がこの理屈でそうしてきたのかはよくわからないけど、ある日この対価の話を彼がちらっとしていて、物凄く学んだ気分になった。


身の回りに溢れるもの、きっと色んな人が予想以上の時間をかけて出来たものだ。その一杯のコーヒーは、発案した人、豆を選んだ人、淹れる人の時間がかかって出来たものであり、淹れるのに必要な物や提供する場のコストがかかっている。そこで働いている人は、お客さんの出入りで生活している。人が来れば仕事は忙しく、トイレも汚れるが、対価と引き換えにその仕事をしている。


お金が発生すると、次元の違う話のように感じがちだけど、この対価の話は私が普段から大切にしている「想像力」の話と同じように語ることができそうだ。


何が言いたいのかというと、私は人から手紙をもらった時に、

「私が読むのの何倍もの時間をかけて文章を考えてくれたんだ」

「このステキなレターを選ぶのに複数の店へ出向き、買ってくれたんだ」

「渡してくれた後でも、ああいうことを書けばよかった…なんて、思ってくれているかも」

なんて、想像力を働かせながら読んでいる。幸せになって、私も相手にそれ以上の事をしてあげたいと感じる。


対価 という言葉が相応しいかわからないが、こういう事を考えられれば物のありがたみがわかる。そんなに違う話ではないと思った。


コンビニでトイレを借りるのはいい。でも買い物をするのが私の中ではルール。トイレ掃除って誰でも嫌がるけど、店員さんがしてるんだよね。



えり


P.S.

色鉛筆が欲しい