2020
一番の気づきは、
自分ひとりで成し遂げたことはマジでこれ一つとして何もない
という事でしょうか。
まじでないわ、と思ったのです。
少し前に、東大の入学式での小野千鶴子教授の祝辞が話題になったけれど、あの方が言っていたことが今になってよく分かるような気がする。
自分を含め、全ての人間が、松岡修造でさえ、心を病んでしまう可能性はきっと等しい。誰かが誰かより「強い」というのは幻想だ。
自分が思ったより脆い事に気付き、そう思った。
私が今もっている肩書や暮らしは全て、周りの人の支えによって成り立っている。
その 支え が、目に見えないところで常に起こっていること、それが無くてはおそらく私はこの世からもういなかったかもしれないという事にハッとさせられた瞬間があった。
特に体が弱いわけでもなく、薬を飲めば治るような一時的な病を患ったわけでもなく、かといって精神病というには大袈裟な気がするのに、それなのにずっと鬱々として体調が悪いという日々が続いた。病院には結局行かなかったのでわからないが、要素は様々にあったんだと思う。たぶん、ただただとても疲れていた。
人間関係には満足しているし、仕事もそれなりに好きなので、精神的には大丈夫と思っていたが、身体の調子が悪いと余計に精神も削られていく。ある日限界で、仕事中危うく涙が溢れそうになった。人に会うのも言葉を発するのも嫌で嫌で仕方なかった。ご飯も食べられなかった。
友達の友達や恋人に、病院で診断される類の精神病を患った人達がいる。彼らは普通より「弱い」と言われてしまう。そう評価する側は、まるで自分はそういうものとは無縁の「強い」人間だと思っている。同じ境遇になっても、自分は大丈夫だと思っている。
私が辛いとき、声をかけてくれる人がいた。直接のそういうのはしなくても、見守ってくれている人がいた。私が強い人間なのでは無くて、周りが優しかった。自分ひとりのパワーではなくて、周りからの強い強いパワーがあった。
自分が努力し、全うし、乗り越えた!という気がしても、実は周りの支えがあった。その支えが、見えないくせにまじでつよつよなのだった。今の安定した私は、それありきなのだった。
私よりもっとしんどそうな人たちは、きっと色んなタイミングとかが上手く噛み合わなかったのだ。私は辛うじて上手くいっているだけなのだ。実はもう少しでやばいのかもしれない。そんな気はしないのだけれど。
地味に体調が悪い日が続いた時、辛さってのは本人にしかわからないわ、どうしようもないや。ってな発見もあった。うつ病やお年寄りの辛さに対する想像力がより進んだ感じがする。わからないんだけどね。
精神病を抱える恋人をもつ友達がある日言っていた、「誰だって鬱になる可能性はある」って一言が、よく理解できるようになったそんな年でした。2020年。