腑に落ちないことに自信を持つこと

既存のルールに従う事は簡単だ。でも既存のルールに疑問を持ち、それを発信するのは、中々難しい。


例えばこれから挙げる例は、社会で当然のルールのように成り立っているものに対して、私が疑問に思っていることであり、かつ私と同じように思っている人はあまりいないのだなと感じているものです。


まず電車の優先席について。

あれ、優先の対象となるような人以外は予め座らないのがルールみたいになってるけど、なぜ?


周りの人が結構、優先席に座るのは悪みたいな正義持ってる人多くて、ほんとにー?と言いたくなる。


気持ちはわかるけどね。

空いてるのなら座ればいい。対象となる人が来たら、サッと席を譲ればいい。私は空いてたら座ります。混んでる場合はその方が多く人が入れるし。そのかわり、必要な人がいないか見渡して、その人が現れたら譲る。


座るか座らないかは自由。ただ、そこに座る人に対して憤るようなその正義は、単に既存のルールに対して受け身なだけで、思考が働いてないからでは?「イラッとするべき事」に対して、イラっとしているだけじゃない?


有名な話だと、電車内でのメイクもそうかなあ。それがマナー違反という文化があるから、なんとなく私自身はしないけど、他人がしてるのを見てどうこう思う事に対して疑問に思ってきた。

なぜあれを見て、イラっとするの?そしてなぜあれにイラっとする姿勢が、正義として評価されているの?いまいちわからない。どうでもよくないですか?


人が好き嫌いを前提に色んな意見が出ることは、普通のことだと思う。だからそれを嫌ったっていい。私はマナーだと思うって言ったっていい。けれど、好きだったっていいじゃない。なぜ、みんなが怒っていることに対して、何の疑問も持たず同じように怒るの。そしてそれを、正義だと思い込んでいるの。


世の中、きっとこういう事がすごく多いんだろうなと思います。みんな、本当は何がいけないのかわかってないのに、怒ってる。それが「怒るべき対象であるもの」だから、怒ってる。


そしてそれに対して異論を唱えるのは、とても難しい事であり、挑戦的な事のようです。


正義だと”思い込んでいる”人間はとてもやっかいで、その人と対話をしたいと思っても、伝える力が無いと無謀かもしれない。


はい、ここで私の「伝える力をつけたい」という欲求と、その必要性とが、結びつきましたね!やった!


文化は思い込みで出来ているかもしれない。私はあくまで私の価値観でしかものを見れない。ただ、その価値観の枠組みを何とか柔軟なものにしようという努力の姿勢は、忘れずにいたいな、と思う次第です。



えり


P.S.

同棲したい〜