性格悪い
ナメる という言葉にどうやら私は敏感なようで…
この言葉を聞くと、心がザワザワッとする。
そして、自分は、ナメられるタイプの人間だと思っている。
人間には、ナメられる人とナメる人の2つに分かれると、そんな風に考えてしまうことがたまにある。そしてその考えが浮かぶ度に、ああ、私は心が捻くれている、キモイなあ、と悲しくなる。
入社して初めて上司に会った時、ああこの人はナメる側の人間だなと思った。これ、全然悪い意味じゃない。表現がひどいだけ。
佇まいに余裕があって、ボケとツッコミなら間違いなくツッコミ、それも強めのツッコミをするタイプ。時には人を(傷つけない程度に)笑いに使う事もできる。もちろん、仕事もできる。
強い態度をとられやすい人間というのが居ると思う。皆んなが余裕を持って接することのできる人。
今時の言葉で言うならば、「マウントをとるのに都合のいい相手」かもしれない。優劣なんて無いってわかってても、やっぱり皆んな何か人より優ってると思いたい性質があると思うんだけど、そういう時に、私は便利な存在だったんじゃないかなと思う。
あと、人のそういうマウント精神とかイラつき神経を、私自身が刺激する要素もあるんだと思う。私が引き起こしてしまう。
暗くて悲しいブログですいませんでした!
2020
一番の気づきは、
自分ひとりで成し遂げたことはマジでこれ一つとして何もない
という事でしょうか。
まじでないわ、と思ったのです。
少し前に、東大の入学式での小野千鶴子教授の祝辞が話題になったけれど、あの方が言っていたことが今になってよく分かるような気がする。
自分を含め、全ての人間が、松岡修造でさえ、心を病んでしまう可能性はきっと等しい。誰かが誰かより「強い」というのは幻想だ。
自分が思ったより脆い事に気付き、そう思った。
私が今もっている肩書や暮らしは全て、周りの人の支えによって成り立っている。
その 支え が、目に見えないところで常に起こっていること、それが無くてはおそらく私はこの世からもういなかったかもしれないという事にハッとさせられた瞬間があった。
特に体が弱いわけでもなく、薬を飲めば治るような一時的な病を患ったわけでもなく、かといって精神病というには大袈裟な気がするのに、それなのにずっと鬱々として体調が悪いという日々が続いた。病院には結局行かなかったのでわからないが、要素は様々にあったんだと思う。たぶん、ただただとても疲れていた。
人間関係には満足しているし、仕事もそれなりに好きなので、精神的には大丈夫と思っていたが、身体の調子が悪いと余計に精神も削られていく。ある日限界で、仕事中危うく涙が溢れそうになった。人に会うのも言葉を発するのも嫌で嫌で仕方なかった。ご飯も食べられなかった。
友達の友達や恋人に、病院で診断される類の精神病を患った人達がいる。彼らは普通より「弱い」と言われてしまう。そう評価する側は、まるで自分はそういうものとは無縁の「強い」人間だと思っている。同じ境遇になっても、自分は大丈夫だと思っている。
私が辛いとき、声をかけてくれる人がいた。直接のそういうのはしなくても、見守ってくれている人がいた。私が強い人間なのでは無くて、周りが優しかった。自分ひとりのパワーではなくて、周りからの強い強いパワーがあった。
自分が努力し、全うし、乗り越えた!という気がしても、実は周りの支えがあった。その支えが、見えないくせにまじでつよつよなのだった。今の安定した私は、それありきなのだった。
私よりもっとしんどそうな人たちは、きっと色んなタイミングとかが上手く噛み合わなかったのだ。私は辛うじて上手くいっているだけなのだ。実はもう少しでやばいのかもしれない。そんな気はしないのだけれど。
地味に体調が悪い日が続いた時、辛さってのは本人にしかわからないわ、どうしようもないや。ってな発見もあった。うつ病やお年寄りの辛さに対する想像力がより進んだ感じがする。わからないんだけどね。
精神病を抱える恋人をもつ友達がある日言っていた、「誰だって鬱になる可能性はある」って一言が、よく理解できるようになったそんな年でした。2020年。
■
恋愛 恋人同士 恋心 愛情
皆んなが知っている言葉は沢山あって、皆同じように使われているかのように見えるけど、
実は人によって少しずつ、思うことが違っていたりするのかしら、と思ったり。
約5年、このままいけば5年、同じ人を見てきて
他の人には抱いたことのないような想いと、他の人には一切向けることのない特別な視線を、その人だけに抱き、向けている。
これを、将来全く違う人に向けるだなんて、考えたくもない。自分の中で、大切に大切に育ててきたもの。自分と切り離すなんて、余りにも残酷に感じる。
自分の中に、限りなく 愛 という言葉に似た感情があることが確信できる。
結婚したいとか子供が欲しいとか、女に生まれれば小学生の頃から話す内容だけど、ずっとピンとこなかった。それが、愛が芽生えた相手が出来て、初めてわかった。この人と結婚してみたい。この人との子供の顔が見てみたい。ゆっくりと忍耐強く関係を育んできて、いつしか自然とそういう気持ちが沸き起こった。結婚式を挙げてみたい。一緒に歳をとってみたい。暮らしを共にしてみたい。父親としての顔を見てみたい。
ただし、こんなに強い想いだって、叶わない未来があることも、あるんだろうな。
どうなるかは、全くわからない。未来のことなんて。只々、今沸き起こる会いたいという気持ちに素直になって、会いに行くだけ。その積み重ねな毎日。目の前のその人と、私の中に起こる感情と誠実に向き合うだけ。その積み重ね、それだけ。
相手へのそういう、素直で正直で私の身体中に満ちているものが、自分から消えるなんて、思えない。本当に。
ようし
私は元々、自分の容姿にすごく自信が無くて、中学の時なんかは最もコンプレックスが強い時期だった。
それでも、好いてくれる男性がいたり、お化粧をする楽しさを覚えたりして、今はそんなに気にせず過ごすことが出来ている。自分が前向きな性格なのも良かった。
人間は無い物ねだりとよく言うけれど、本当にそうだと思う。私はシュッとした美人にとても憧れる。ショートが似合いたい人生だった。
私は完全にタイプが逆で、これも自分には良過ぎる評価と思うけど、よくアイドルぽいと言われる。なんどAKBにいそうと言われたかわからない。〇〇にめっちゃ似てる!と言われることもある。数年前、ヘアサロンで美容師に「AKBの後ろから三列目位で踊ってそう」と言われたことを私は一生忘れません。
中学高校と、恋愛が盛んになる時期、私に気を持ってくれる男の子が数名いた。あまり関わらないで終わった人も多いのだけど、みんなめっちゃいい人だったんじゃないか…?と思っている。だって、私のことを好きって。別に可愛いかったわけじゃないのに。少し自信が持てたので、めちゃくちゃ感謝!
私の顔は全てが丸い。輪郭もパーツも。この間行ってみた骨格診断でも、カウンセラーの方が言ってたけど、とにかく全部丸い。キュートタイプに振り分けられ、よく言えばアイドル系要素らしい。笑。愛嬌があることは自負してます。
いわゆるそういったアイドルっぽさは、あまり自分の好みでも無いし憧れの対象でもなくて、アイドルと形容されると自然と少し悲しいような気になってしまう。
自分の好みが美容師垢に出てくるようなおしゃれ系美人なので、そういう人をお手本にしがちだし、インスタでも目に留まりがち。そうするとどうしても、「自分が評価されない世界」に迷い込んでしまう。
私は丸顔だし華奢じゃないので、真似してみたい洋服が似合わなかったりする。自分の周りで、自分とは逆のタイプの人達が綺麗だの素敵だのと評価されていると、勝手に傷ついてしまう。落ち込んでしまう。
でも、そう、文字通り、”勝手に”傷ついてるだけなんだなあ。
私の丸顔を、好きとか可愛いとか言ってくれる人に出会って、見た目に関してだって、私には私の良さがあるんだと思えるようになりました。
サロンモデル系の素敵さもある。アイドルみたいな素敵さもある。中性的でオシャンな素敵さもある。みんな違ってみんないい。わかります。
かと言って自信をつけることはこんなにも難しくて、傷つくことは意識的にしかやめられない。でも自分の良さに気づけてよかった。昔みたいに、顔を隠すためだけにマスクを付けるなんて事、いつのまにかしなくなってたー。
えり
P.S.
有村架純も丸顔
また噛み締めたこと
何1つとして同じものはないのに、と最近よく思う。
あの2人が別れた、離婚した、部活辞めた、仕事辞めた、あんなこと言ったこんなこと言った。
言動はそれを行った人によって全く変わる。けどそんなことは忘れられてしまっている場合が多い。
目に見えることにしか意識が向かないのは、それはそうかもしれない。けれども結果が同じなだけで、その中身の質は全く異なることの方が、よっぽども多そうだ、というのが今のわたしの経験値からの推測。
結果というのは例えば、上記に羅列したことなど。中身の質というのは例えば、その人の境遇、性格、タイミング、意味合い、理由などなど真実の全て。
「馬鹿」という言葉が、場合によっては嫌な意味だったり、愛のある意味だったりするみたいに、もっともーっと色んなことにおいてそれが起こっている。というかそうじゃない事ってあるかな。
何1つとして同じじゃあないな。
だから、ちゃんと自分で考えないと!誰かと話をして得られるのは答えじゃないのに。
自分という色眼鏡を通してしか世界は見れない事をふと忘れると、人を傷つける。それは私にとってとても恐怖。あまりにも慎重だから、人は好きなのに、人と長くいるのは辛い。だけれども、私のこんな性格が誰かを救っているという自信があって、これでいいかもと思う。私が私以外の人に救われているように。ちなみにその救い合いも、全く目に見えないのにそばにあるよね。
これからもよーく人の話を聞こう。
えり
12時就寝を目標に…。
感謝こそがベスト
環境の全く違うところに行かないと学べることがない
なんて、誰にでも想像のつくような発想しかないうちは、どこに行ったって大して学べやしないんじゃないの?と思う。
学びや気づきなんて、実は自分のすぐ隣にあるものなのだ!と思う。半径5センチメートル以内にさえ、あるのだ!きっと。
今日人気のカフェで人気のケーキを食べていたら、隣の席に若い男女が座った。聞こえてくる話からすると、就活生。世間一般にいう意識高い系の代名詞みたいな話を繰り広げていた最中、こんなことが聞こえてきた↓
「成長するなら上を見ないと。自分より下を見たってどうしようもない。例えば旅行行くにも、上の国に行きたい。インドとかタイとか下の国に行ったって仕方がない。成長するなら上の国に行って学ばなきゃ」
それはとても違うと私は思います!と言いたかった。いや正直に言うなら、あほじゃねえの?おたんこなすか?と、心の中では咄嗟に口が悪くなった。口が悪いのは反省した。
学びってそうじゃない。目の前の人にも、環境にも、景色にも、全てに学びはある。というより、何事も自分次第で学びに変えられるよ、と思う。
例えば、今日私はその隣の席の男の子からも学んだのだ。この記事に書いたことを。
毎日飽きなくて楽しい。学びだらけ!そしてこんな楽しい生活を送っていられるの、周りの支えがあってこそと思う。結局行き着く先は感謝。毎日あれこれ自分とお話をして考え込んでいるけど(気持ち悪いなと思うこともありつつ、役に立つなとも思う)、行き着く先は周りへの感謝。感謝こそがアンサー。
えり
P.S.
基礎化粧品にはお金をかけず、体内に取り込む食料品にはお金をかけるのがいいかな?と思ったので、心がけます!