私は勉強ができない

私は、「”元”頭のいい子 」だ。

小学校・中学校と成績は常にクラス上位で、学年では大体3位以内、トップを取ったこともある。先生の言うことはよく聞いて、授業態度もばっちり、生徒会や部長を務めたりと、義務教育の9年間はとにかく優等生であった。


必死だった。周りの期待に応えるのに。周りにガッカリされないように。


私は、成績が落ちたりすることによって周りからの評価が下がる事に、ただならぬ恐怖を感じていた。その恐怖に耐えられなくて、必死に、周りが思う通りの優等生な出来る子を守っていた。


私がそういったものに対する不安にかられ始めたのは保育園の年長の頃からだったと思う。私は生まれつきイイ子だったようだが、それに気付いたのがちょうどそれくらいの頃という事だろうか。


「学校の先生の子供で、優秀な姉を持つ優秀な良い子」


家族、友人、先生、周りの大人たちからのそんな評価に気付いて、それが圧力となって、そして私が勉強をする意味となった。


そんなプレッシャーの隣で、なんとなく自分が天才ではないことがわかっていた。だから怖かった。努力をしないと、やばいと思った。気を抜いたら終わると思った。


年齢が上がって求められるレベルが高くなるにつれ、苦しくなっていった。優秀な大人は、私のその本質を見抜いていただろう。そんな目はすぐにわかる。最高に居心地の悪い視線、それを感じると心臓がバクバクした。


忘れもしない。


私が「わかりません」と言った時に英語の先生に言われた一言 「がっかりです」


私が学年1位を取れてホッとしていた時に数学の先生に言われた 「念願叶ったね」


前者は「意外と頭悪いんだね」、後者は「本当は頭悪いもんね」、そんな風に聞こえた。どちらも、一番言われたくなかった言葉だった。


出身中学からの進学先としてはかなりレベルの高いとされていた、姉も通っていた高校に私一人合格し、予定通り周りの期待を裏切らずに済んだ。教師の子供として優秀であること、姉より劣っていないことを証明して、私は満足した。その瞬間、勉強する全てのの目的を達成した。


まったく、何のために勉強をしていたんだろう。


高校からは一気に気が抜けて、全く勉強しなくなった。だって、もう誰も私を知らない。応える必要のある期待が存在しなかったから、自分が傷つかない程度の成績をキープした。


大学に入って、たくさんの優秀な人に会った。自分が井の中の蛙なことを知る。その人達はみんな努力家だ。みんな自分のために努力をしてきた人。私は自分自身を本当に情けなく思って、落ち込んだ。


周りを気にして守りの姿勢に入りがちなこの性質は中々変えられない。だけど、気付いた瞬間から、変わるための方向を向くことはできる。私は私のために努力をする。見栄は張らない。


なんだかネガティブな感情がここ最近続いてしまっているけど、自分のマイナスが見えてる時は成長のチャンスかもねなんて自分に声をかけながら、ちゃんと頑張ろうともおもいます。平野、決意のブログでした。


えり


P.S.

今日は食べ過ぎた。