どうせい
同棲の妄想が止まらないので、いっそ文字に起こすことにしました。
部屋は2人とも別で寝られる部屋数がある。理想は2DKかな?トイレとお風呂は別で、築20年未満だといいなあ
IHかガスコンロかは私はこだわらない。
日当たり良好だといい!明るい方がいい。
駅はそりゃあ近ければ近いほど良い。安全第一。
私も彼もきっと、身の回りの綺麗さには気をつけると思うので、スッキリしてるのをキープしたいな。いや私片付け苦手だけど、彼となら頑張れると思う…
私も彼も、読書や勉強をすると思う。そんな時は、2人でお気に入りの少し贅沢して買ったコーヒーを淹れて飲む。たまにその横に、クロワッサンがある。
そのクロワッサンは、同棲を始めてから発見した2人のお気に入りのパン屋さんで買ったやつ。朝はよくそこのデニッシュ食パンをトーストして、コーヒーと一緒に食べる。彼は朝も勉強で忙しいので、大体私が焼いてあげる。たまに小倉トーストにしてみる。
キッチンにはコンロが2つしかないけど、たまにホットプレートを使ったりしてやりこなす。減量中なのでレシピは一辺倒だけど、余裕のある休日には一緒にささみ餃子を作る。
ブロッコリーは良い具合に私が茹でてあげる。
ご飯の時は、彼が饒舌気味に経済の話をするのを、よくわからないなあ、勉強しなきゃなあとか思いながら相槌だけは一生懸命うつ。
私は私で、まとまりがなくて伝わりにくい話をして、意味がわからないと言われて落ち込む。
化粧品が好きな私は、憧れだったヘアケア製品を週一で使うんだけど、そういうのは気分がいい。彼が家にいるのなら、お、今日は良い匂いするねとか言ってもらえて嬉しいだろうな。
ちなみに2人ともモロッカンオイルがお気に入りなので、でかいのを買ってシェアする。
寝室のダブルベットではNetflix見てそのまま寝落ちとかしてる。
カーテンとか壁には紐にちっさい電球がたくさん付いてるみたいなやつをぶら下げたい。
あ、あとたまには、可愛いアロマキャンドルでも灯してテンションあげたい。
当然、ベッドには愛用のでっかいプーさんのぬいぐるみも寝てる
喧嘩して地獄みたいになった時は、彼がダブルベッドを牛耳るから私がもう1つの部屋の簡易ベッドで寝るんだけど、
朝になると彼の方から来てくれる。来い。
「始めるなら早い方がいい。もしもの事があっても、元気でいてほしいから」
こういう事言われるのは本望ではないというのが、一般論なのかもしれない。
けれど、私はとても嬉しかった。こういう事を言い合えるからこそ、私は今この関係に自信が持てているし、信頼できる。
信じて疑わないみたいな関係は、なんだか頼りなく、すぐに消えてしまう嘘のようなものに見える。
とりあえず私たちはこう。2人のことは、2人にしかわからない。
2人で住む恐ろしさの妄想も無限にできるけど、今は小さなベランダで一緒にミニトマトを育てるような、そういう暮らしぶりを考えてキモくにやけてる位の妄想を、寝る時にするスタンスが楽しいです。
えり
P.S.
足の裏の血管が浮き出ている
腑に落ちないことに自信を持つこと
既存のルールに従う事は簡単だ。でも既存のルールに疑問を持ち、それを発信するのは、中々難しい。
例えばこれから挙げる例は、社会で当然のルールのように成り立っているものに対して、私が疑問に思っていることであり、かつ私と同じように思っている人はあまりいないのだなと感じているものです。
まず電車の優先席について。
あれ、優先の対象となるような人以外は予め座らないのがルールみたいになってるけど、なぜ?
周りの人が結構、優先席に座るのは悪みたいな正義持ってる人多くて、ほんとにー?と言いたくなる。
気持ちはわかるけどね。
空いてるのなら座ればいい。対象となる人が来たら、サッと席を譲ればいい。私は空いてたら座ります。混んでる場合はその方が多く人が入れるし。そのかわり、必要な人がいないか見渡して、その人が現れたら譲る。
座るか座らないかは自由。ただ、そこに座る人に対して憤るようなその正義は、単に既存のルールに対して受け身なだけで、思考が働いてないからでは?「イラッとするべき事」に対して、イラっとしているだけじゃない?
有名な話だと、電車内でのメイクもそうかなあ。それがマナー違反という文化があるから、なんとなく私自身はしないけど、他人がしてるのを見てどうこう思う事に対して疑問に思ってきた。
なぜあれを見て、イラっとするの?そしてなぜあれにイラっとする姿勢が、正義として評価されているの?いまいちわからない。どうでもよくないですか?
人が好き嫌いを前提に色んな意見が出ることは、普通のことだと思う。だからそれを嫌ったっていい。私はマナーだと思うって言ったっていい。けれど、好きだったっていいじゃない。なぜ、みんなが怒っていることに対して、何の疑問も持たず同じように怒るの。そしてそれを、正義だと思い込んでいるの。
世の中、きっとこういう事がすごく多いんだろうなと思います。みんな、本当は何がいけないのかわかってないのに、怒ってる。それが「怒るべき対象であるもの」だから、怒ってる。
そしてそれに対して異論を唱えるのは、とても難しい事であり、挑戦的な事のようです。
正義だと”思い込んでいる”人間はとてもやっかいで、その人と対話をしたいと思っても、伝える力が無いと無謀かもしれない。
はい、ここで私の「伝える力をつけたい」という欲求と、その必要性とが、結びつきましたね!やった!
文化は思い込みで出来ているかもしれない。私はあくまで私の価値観でしかものを見れない。ただ、その価値観の枠組みを何とか柔軟なものにしようという努力の姿勢は、忘れずにいたいな、と思う次第です。
えり
P.S.
同棲したい〜
■
私は速読が苦手。たまに読み物をすごいスピードで進めていく人がいるけど、理解力があるんだろうなと思う。
私は物事をすんなり理解できる方ではなくて、じっくり考えるタイプ。だから本を読むのも時間がかかる。そういう意味で、読書に対しては昔から苦手意識があった。
でも、それってオカシイ。なぜなら、私は本にとても興味があるし、本屋で時間を潰すのが昔から大好き。なのに苦手っておかしいぞ。
最近、本を読むようにしていますが、結構楽しんでいます。きっと理由は、自由に本を読んでるから。
読書って何か縛られるものあったっけ?て感じですが、あったんです。だから私は苦手だったんだ!その不自由から解放された今、やはり読書っていいなって思えてる。
苦い思い出を1つ思い出してます。読書に対する苦手意識の理由の1つ。
私の小学校では、毎朝読書の時間がありました。教室にある読書の中から1つ選んで、それを一定期間内に読み終えることが達成すべき目標として与えられていた。
私はこの目標が達成できずに、ある日先生から怒られたんですね。一生懸命読んでたんだけどな、、、
私は優等生だったので、ひどく罪悪感を覚えました。先生にも、なんでなん?という顔をされながら怒られました。千葉出身の人でしたけどね。
その読書週間には以下のルールがありました。
①決められた期間内に読み終えること(期間は忘れた)
②読む本は課題図書(?)の中から選ぶこと
私、本はちゃんと納得するまで理解したいから、なんども同じページを読み返したり、理解できなければ考え込みながら同じページに止まってしまう。特に小説のような、読み手によって感想が変わるものは、ゆっくり時間をかけて読んでしまう。
その時読んでいたのは小説だった。そして課題図書だから選んだけど、あまり興味のある本ではなかった。読まなければいけなかったから、手に取った。
それでも、読むからには学びたかった。読み終えなければいけない期間を気にしつつも、本質はそこでは無いことを私は理解していた。その目標は、少しでも多くの良質な本を児童が読み、学ぶことにあったはず。
だから、目標期間内に読み終わらなくたって、私はきちんと本を読んでいた。「ちゃんと読みました」と嘘をついたってばれやしない。でも私はそう言うの嫌いだし、少しばかりそのおかしなプレッシャーに対しての反抗心もあったかもしれない。
結果的に、私は読み終えることができなくて、先生に怒られてしまった。正当な評価では無いと思った。
けれども、私には読む力が無いのだとか、人より努力が足りないのだとか、理解力が無いのが悪いのだとか、そういう可能性もあると思って、何も言えなかったよー。
今は、読書はそんな風に縛られながらするものでは無いとハッキリ思う。何を読むかは自由でいい。好きな速度で読めばいい。
私は今、速読に伴って集中力を高めたいというのが1つの目標でもあるので、それを意識して本を読むことも。速読ができないことの劣等感は、前こそ抱いていたけど、それは必要ない。色んなことを試すのも楽しい。自由に読む。
オススメの本教えてくだい☺︎
えり
P.S.
あんバターって最強じゃね、、、
大切にすべき人達を忘れそうになったときに読むブログ
私は整理整頓が苦手だ。文字通りの意味でも、頭の整理整頓も。
私は圧倒的右脳派らしいが、右脳派は整理整頓が苦手なんだって。だから仕方がないという事にしておきます。
って感じで通常はあまりネガティブに受け取らないようにしているが、最近はしっかりと向き合うことにしている。そういうタイミングだし、成長したいという熱がある。
自分の直感には割と信頼しているが、言葉で表せないとなんだか頼りない。人にも伝わらないし、それがいつももどかしくて、勿体ないなあと思う。だから学ぶ。このブログだって、その練習の一つ。
自分がこんなんだから、口下手な人や言葉に詰まりやすい人には理解があり同情もしやすいが、そうではない人も沢山いるのだと、大人になってからヒシヒシと感じる。
そしてそうではない人達は大抵、そんな口下手な相手を、馬鹿にする。
ここで1つ、「頭の整理が出来て伝えるのが得意な人は、理解がない」と誤解してはいけない。話すのが得意でも、口下手な人の話を同じ目線に立って聞いてくれる人は沢山いる。「同情が出来ない人」が、馬鹿にする。
…やっぱり言語化ってムツカシイな。まるで話が上手くて口下手な人の理解が出来ない人のことを批判してるみたいになっちゃった。理解「できない」と表現してる時点で責めてるみたい。そうではないんだけども。
責めてるわけでも間違ってると言いたいわけでもなくて、単に私がそれをあまり好きではないだけなのだ。
人は、歯切れが悪くて何を言っているのかよくわからない人の事を、頭が悪いと感じる。そして、人は一度馬鹿だと思ったら、その人を相手にしなくなる。
私はなるべく、そういう人にはなりたくないのだ。そういう「無視」みたいなものは、とても嫌い。
誰かが何かを伝えようとしてるのが、いまいちわかりにくかったとき、「なんかゴチャゴチャ言ってるな。頭悪いな」と思うのと、「どういう事が言いたいのかな。こういう事かな」と”聞く”のでは、まったく逆の姿勢だと言っていい。私は後者でありたい。
私のこの文章はヘタかもしれないけど、わかる人にはわかるんじゃないかな。
わからない場合でも、「なんかようわからんどうでも良い文章ばかりだな」と思う人と、「私には共感しにくい内容だったけど、どういう世界でものを見てる人なんだろう」と思う人とがいる。私は、後者のように思ってくれる人たちを大切にしたい。
わかりやすく伝える力は私にとって重要かつ必要だと思うので、その為の努力をしていこうと思います。
ただ、劣等感で大切にすべきものを見失わないようにしたいな。
えり
P.S.
歌舞伎揚って美味しい…
私は勉強ができない
私は、「”元”頭のいい子 」だ。
小学校・中学校と成績は常にクラス上位で、学年では大体3位以内、トップを取ったこともある。先生の言うことはよく聞いて、授業態度もばっちり、生徒会や部長を務めたりと、義務教育の9年間はとにかく優等生であった。
必死だった。周りの期待に応えるのに。周りにガッカリされないように。
私は、成績が落ちたりすることによって周りからの評価が下がる事に、ただならぬ恐怖を感じていた。その恐怖に耐えられなくて、必死に、周りが思う通りの優等生な出来る子を守っていた。
私がそういったものに対する不安にかられ始めたのは保育園の年長の頃からだったと思う。私は生まれつきイイ子だったようだが、それに気付いたのがちょうどそれくらいの頃という事だろうか。
「学校の先生の子供で、優秀な姉を持つ優秀な良い子」
家族、友人、先生、周りの大人たちからのそんな評価に気付いて、それが圧力となって、そして私が勉強をする意味となった。
そんなプレッシャーの隣で、なんとなく自分が天才ではないことがわかっていた。だから怖かった。努力をしないと、やばいと思った。気を抜いたら終わると思った。
年齢が上がって求められるレベルが高くなるにつれ、苦しくなっていった。優秀な大人は、私のその本質を見抜いていただろう。そんな目はすぐにわかる。最高に居心地の悪い視線、それを感じると心臓がバクバクした。
忘れもしない。
私が「わかりません」と言った時に英語の先生に言われた一言 「がっかりです」
私が学年1位を取れてホッとしていた時に数学の先生に言われた 「念願叶ったね」
前者は「意外と頭悪いんだね」、後者は「本当は頭悪いもんね」、そんな風に聞こえた。どちらも、一番言われたくなかった言葉だった。
出身中学からの進学先としてはかなりレベルの高いとされていた、姉も通っていた高校に私一人合格し、予定通り周りの期待を裏切らずに済んだ。教師の子供として優秀であること、姉より劣っていないことを証明して、私は満足した。その瞬間、勉強する全てのの目的を達成した。
まったく、何のために勉強をしていたんだろう。
高校からは一気に気が抜けて、全く勉強しなくなった。だって、もう誰も私を知らない。応える必要のある期待が存在しなかったから、自分が傷つかない程度の成績をキープした。
大学に入って、たくさんの優秀な人に会った。自分が井の中の蛙なことを知る。その人達はみんな努力家だ。みんな自分のために努力をしてきた人。私は自分自身を本当に情けなく思って、落ち込んだ。
周りを気にして守りの姿勢に入りがちなこの性質は中々変えられない。だけど、気付いた瞬間から、変わるための方向を向くことはできる。私は私のために努力をする。見栄は張らない。
なんだかネガティブな感情がここ最近続いてしまっているけど、自分のマイナスが見えてる時は成長のチャンスかもねなんて自分に声をかけながら、ちゃんと頑張ろうともおもいます。平野、決意のブログでした。
えり
P.S.
今日は食べ過ぎた。
彼氏は偉い
彼氏は偉いと思う。私にできないことを、どんどんこなしてしまうから。私が、できたらいいのに中々難しいなぁ、と思うようなことが得意で、実際に人から見てわかりやすいことを、成し遂げ続けている。
そんな彼氏の脇で、自信を無くし、小さく小さくなっていたのはもう昔の話で、
私は私なりに、自分のことを誇りに思えている。彼氏は、私よりも立派かもしれないけど、私は彼氏の苦手な部分で、活躍出来ている。と思うんだよね。
つまりは、彼氏の隣でも自信を持てるようになっている。努力の賜物である。
彼氏の凄いところもたくさん言えるし、ヘタクソなこともたくさん言える。ヘタクソなんだから、応援してる。
こんな風に付き合ってきて、私はどんどん、畳んでいた羽を伸ばせるようになっているのを感じる。まだまだ伸びきってはいないこの羽を、今後もちょっとずつ、2人で伸ばしていけるんじゃないかと思う。
そんな事を考えていて、ふと思ったのは、
「冷める」とは、どういう感じなんだろうか、
冷めるのは、熱なのかな、なんて思ったら、
私は今のぼせているのか?はて…
えり
P.S.
彼氏のタピオカ巡りに同行するのが最近の幸せです。
優しさについて語った数はしれないけれど
優しさというのは中々見えにくいものだと思うので、見えなくても、あるものだということにしています。
想像して、作り出して、勝手に感謝します。
見えた優しさにはとびきり感謝します。出来るだけその旨は伝えたいと思っています。
優しさというのは中々見えにくいものだと思うので、伝わらなかったとしても、それでいいです。
私が勘違いした優しさが、誰かを不快にしてしまったら、反省して、謝ります。
見つけてもらえなかった優しさが世の中にはたくさんありそうなので、私はなるべく見つけて、一つ一つ丁寧に、感謝したいです。
これが私の優しさです。
えり
P.S
たい焼きが食べたい